はじめに
いい写真とはなんだろうか。
この世に写真という技術が生まれてから、何万回も繰り返されてきた議論だ。
僕自身、写真とは画一的な答えがない自由なものだと思っている。
とは言え、自分が写真を生業にしている以上「こう思う」という定義はある。
先に答えを言ってしまうと、僕は「役割のある写真」はすべからくいい写真だと思っている。
例えば、定期入れに忍ばせた家族の写真は日々の仕事のモチベーションに繋がるし、結婚式で流れるスライドショーは、参列者のみんなで語り合うことができるコミュニケーションツールだ。
僕にとっての写真は、人を楽しくさせたり、物思いにふけることができたり、見た人の気持ちになにかしら作用する道具だと捉えている。もちろん技術的に上手い下手はあるのだけど、一番大切なところはそこではない。上手いけど役割を感じない写真は存在するし、下手だけど何故か胸に刺さるという写真も確かに存在する。
そんな目線で写真を見てみると、そこにはプロが撮った巧みな写真も、写真好きの人が高い機材で撮った写真も、家族が撮ったスマホの写真も大きな隔たりはなくて、どんな写真も何かの役割が果たせているのであれば、それはきっといい写真なのだと僕は思う。
加えて、デジタル技術の進歩によって写真を撮ること自体のハードルはとても低くなった。
今では高価なカメラ機材がなくても、スマホさえあれば気軽に記録を残すことができるし、僕が小さかった頃の1980〜90年代には考えられなかった写真、特に日常の風景を残すことができている。そんな写真を撮る機会が増えたこと、それ自体は間違いなく喜ばしいことだ。
デジタル技術に翻弄される僕たち
デジタル写真はデータ保存媒体の容量次第で好きなだけ撮り続けることができるけど、それは同時に「役割のない写真」を量産してしまうという弱点がある。僕もそんなデジタル技術の恩恵を受けながらも翻弄された一人だ。
僕がフリーランスとして写真を撮り出した最初の頃は、質に自信が持てなくて量でカバーすることが多かった。1回の家族のスナップ撮影で何百枚という枚数の写真を納品することもざらにあって、子どもの顔の角度がちょっと変わるだけでも、兎に角シャッターを切っていた。
それでいい写真が沢山増えたかと言うと、残念ながらそうではなかったように思う。
それどころか、単純に枚数が多い分見るのが大変で管理も一苦労。仮にどれだけいい写真が含まれていたとしても数に埋もれてしまうし、そもそもその日の写真を気軽に見返すことすら難しくなるだろう。料理で例えて言うなら、食べる物がたくさんあっても小さなお皿しか用意されていないみたいな状態だ。
そのことに気づいてからは、僕は撮らせていただいた写真の納品データを厳選し、なるべく紙アルバムやプリントなどの何かしらのかたちにすることをお勧めするようになった。
さっきの料理の話で言うなら、写真をアルバムという器に盛り付ける感覚だ。
デジタルデータをアナログに落とし込むという方法になるわけだけど、アナログの良さを利用することで、写真はただデータで楽しむよりもはるかに役割を果たせるようになったと思う。
子どもの成長に合わせてアルバムが増えていくのが楽しみと言ってもらえるのもなにより嬉しいことだった。
記憶の記録
2019年、僕にも子どもが生まれた。
日々の暮らしの中で今しか見ることのできない仕草、できることが増えていく姿、それを見た時の自分の感情や記憶も記録したくて数え切れないくらいシャッターを切った。そこには「こんな風に記録を残してあげたい」という親のエゴもかなり大きくあったのだけど、写真が増えていくことそのものが嬉しくもあった。
そもそも写真を撮るということは純粋に楽しいことだし、そんな瞬間に出会えたこと自体が喜ばしい。そうして撮った写真の一枚一枚はどれも愛おしく、僕にとって大切な記憶の鍵のような写真だ。願わくは家族にとってもそうであって欲しい。
しかしながらどうだろう。そんな想いがあるからこそ日常写真を自分たちで厳選することが難しくて、沢山撮った写真をアナログに落とし込もうにも時間がかかるのだ。
それなのに家族の日常には記憶に残したいと思う場面に溢れている。写真を撮らずにはいられない。撮っただけの写真はどんどん増える。まるで夏休みの宿題が減らないどころか、増えていくみたいな感覚だった。
デジタルだから叶うこと
ある日写真イベントに参加させてもらい、セミナーで話を聞く機会に恵まれた。
「家族の写真がスマホなど個人の所有物にだけ保存されているのはもったいない」
「みんなの写真をみんなが気兼ねなく見られるようにすることが大切」
「デジタル写真は整理をすることが必要で、それには専門のアイテムを使うことが効率的」
目から鱗が何枚落ちたか分からないくらいの衝撃を受けた。
デジタル写真をデジタルな方法で活かす、という考え方はストンと胸に落ちてくるものだった。 これが僕の「おもいでばこ」との出会いだ。
セミナーが終わると、いてもたってもいられず、展示ブースで実機を触らせてもらった。
同じ写真を保存しそうになったら検知してくれる機能。
保存された写真が自動でカレンダーに並び、簡単に日付で管理できる機能。
テレビのリモコン操作の容易さで写真を見ることができる機能。
他にもブーススタッフの方が色んな説明をしてくれたのだけど、その説明のどれもこれもが腑に落ちた。中でも特に僕に刺さったのは、「保存した家族の写真をテレビで家族と観られること」だった。
ふと思い出したのは実家のリビングにあった家族写真アルバム。そういえば僕は小さい頃そのアルバムを見ながら親と思い出話をするのがすごく好きだったのだ。
僕が家族の日常写真に求めていた役割は「そんな時間を作ること」にあると気がついた。
数日後、僕は家に届いた「おもいでばこ」とリビングのテレビをケーブルで繋ぎ、スマホやパソコンに散らばった我が家の3年間の日常の記録を「おもいでばこ」に集約。その日の夕食時に早速上映会を行うことにした。
3歳の息子が最初はYouTubeを観させてもらえると勘違いしたみたいだったけど、テレビに映っているのは我が家の写真であることをすぐに理解したみたいで、たどたどしい言葉を駆使しながら、「ここ(の公園また)いきたい!」と言っていた。
僕や妻と映る自分の写真を見るたびに嬉しそうな反応をしているのを見るのがまた嬉しかった。子どもの頃の自分が重なった。
写真を楽しむということ
購入してから数ヶ月が経った。
「おもいでばこ」を買ってからしばらく経った今でも家族上映会は突発的に行われている。
主に夕食時にテレビがつまらない時や親族や友人が家を訪ねてきた時に起動することが多い。
写真を見ながら、その時の出来事や思っていたことを話したり、またここに行きたいねなんて話も尽きないことから、最近は「おもいでばこ」から「時間泥棒」と呼び名が変わった。
現在僕は、家族の日常写真を「おもいでばこ」で整理しながら、以前と変わらずアルバムの制作にも取り組んでいる。
アナログのアルバムには、質感や手触りなど紙そのものが持つ温かみやページを捲る楽しさがあり、アルバム(本)というカタチにしか表現できない物語性がある。
デジタルデータには保管の場所を取らずに小さな箱の中で大量の写真を整理して楽しむ便利さや他のコンテンツへの汎用性も高い。それぞれの特色があり、それぞれの良さがある。どちらにも共通して大切なことは「写真が持っている役割を果たしているかどうか」だと僕は思う。
写真は楽しみ方も自由なのだ。
僕は家族の日常写真は基本的には嬉しいことや楽しいことがあった時に撮っている。そんな写真は機会があるたびに家族で楽しみたいし共有したいと思う。スマホの中に眠っているだけでは作れなかった会話が彩る夕食の時間。
「おもいでばこ」は今日も僕の写真を「役割のある写真」にしてくれている。
\わかりやすくご紹介します/
藤田 温(ふじた あつし)
1985年生まれ、兵庫県明石市在住の写真家。
2014年に自己免疫性脳炎を発症。一部記憶を無くした経験から記録媒体に関心を持つようになり、想い入れのあった祖父母の家の解体前に撮影を決行。以降様々な事情で手放すことになった個人宅をはじめ飲食店や商店、造船所などジャンルを問わず多くの歴史を記録。海外に移住した家族に日本の実家を写真で届けるプロジェクト等いずれの撮影も企画立案から手がける。2019年、2023年に家じまいについて考える写真展「キオクノキロク」を開催し家じまいを記録に残す文化を作るべく日々邁進中。
KATACHI PHOTO PROJECT
明治安田生命マイハピネスフォトコンテスト 2019-2022年連続受賞(佳作、銀賞、金賞)
島村楽路 LOVE PlANO 全国展開ポスター採用
JAあかしフリーペーパー「HARVEST」企画制作
→Pia-no-jaC←写真集「HOME to HOME」企画制作
相続手続支援センター関西コンセプトブック
「相続手続で大切にしたいこと」企画制作
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